僕は子供の頃これからは科学の時代なのだと信じていた。
これからは科学を発展させていき、今はまだわからないことも多いけどこれからより発展することによってより便利になり、人はもっと幸せになるものだと思っていた。
しかし、最近どうもそれが信じられなくなった。
どうも頼りなくなった。
きっかけはコロナ騒動である。
2020年からなんだかよくわからない新型コロナに対して科学の動きが試された。
その結果はいったいどうなったのだろう?
いまはコロナ騒動は2,3年前に比べれば落ち着いている。
これは科学の勝利だ。
とは、僕は思わない。
かといって敗北とも思わない。
どうも良くわからない。
何が起きたのか良く分からない。
僕はその判断が一番正しい状況だと思う。
結局あれはなんだったのか?
なんで落ち着いたのか?
何が効果があって、何が効果がなかったのか?
良く分からない。
調べればわかるという人はいる。
勉強すればわかるという人はいる。
一定数いる。
でも調べても勉強してみてももっとわからなくなる。
ある考えや定説や論文を調べてもそれに反対する人がいるからだ。
どちらも「それは科学的ではない」「それは感情的だ」とお互いがお互い言い争っている。
だから僕はそれに対して「こっちが科学的に正しい」とは言えない。
というよりも「科学的とは何か?」「正しいとは何か?」という話になってくる。
僕は子供のころ科学の時代なのだからこれからは哲学は廃れ、宗教は亡くなっていくものと思っていた。
哲学や宗教は必要ないものと思っていた。
しかし、残念ながら僕がたどり着いたのは哲学と宗教だった。
僕はこのコロナ騒動は宗教にしか感じられなかった。
なにを正しいと思っているのか各々個々人がそれぞれ持っていて、みんな違っている。
「みんな違ってもいい」だなんていうが、違う意見によって争いは起こるし、それを避けてお互いがお互いを様子見ている人もいる。
お互い様子見るのがめんどくさい人は多数派に付くだけだ。
なので理屈とか理論とか、科学的説明なんてみんなどうでもよかった。
だれもそんなことを気にしていなかった。
大事なのは周りの状況、絆、周りの目だった。
そういった意味では科学は敗北していたと思う。
科学というもので人は動いていなかったと思う。
そこにあるのは理屈でも理論でも科学的説明でもなかった。
数値では表しにくい、正しい値がわかりにくいものの判断をするときに多数派はとても便利で強力だと思う。
僕はコロナ騒動で科学というものが良く分からなくなった。
非常に頼りないものだと思った。
どんなに「科学的」と言われている話を聞いても、結局その話を理解できないひとは「科学的ではない」と判断してしまう。
お互いがお互いそう思ってしまう。
それを解決できないのは科学が「こうだ!!」という数値を提示できないからだと思う。
だから科学はとてもたよりないと思った。
ここれはあえて○○派とか○○反対派とか○○陰謀論とかそういった話はだしたくない。
僕は僕なりに思いや考えはあるが、残念ながらそれは正しいのか正しくないのか今の科学ではわからないのだろうというのが正解、と思っている。
でもそれがわかるのはいつなんだろう。
そもそも科学という言葉を追求していくと、統計的な確からしさを増そうとする試みなのであって、あくまで絶対に正しいを判定できる学問ではないらしい。
今もこの時代でも進化論を信じない、地球平面説を信じている人がいるらしい。
そして、それは科学の最先端を進むアメリカにもいるらしい。
僕は科学というもののから完全に信頼を失ったわけではない。
ただ、科学に対して絶大な信頼をしていたことは良くないことだと思い始めた。
信じすぎるというのは良くない傾向に走ることが多い。
逆の考えの人を押しつぶそうとするからだ。
宗教は怖いというが怖いのは宗教の内容を信じすぎて、自分の解釈を信じすぎて他を許さないというのが怖いのである。
このコロナ騒動の宗教も同じことだと思う。
冒頭から僕は科学を信じているとか信頼しているとか言っている。
科学は宗教の一つだなんて言っている人もいたが、僕はその通りであると思う。
僕はただ科学を信じているだけである。
この科学を大多数の人は信じている。
ただそれは仕方のないことだと思う。
だからと言って科学は良くないから信じないほうがいいというわけではない。
人は何かを信じないと、何かしらの宗教がないと生きていけないのだと思う。
その宗教が今は科学だったり資本主義だったりするだけである。
またキリスト教とか帝国主義(一人の王が支配するような世の中)の舟には戻れない。
僕らは今この舟に乗るしかない。
他の舟がないから。
もし新しい舟が見つかったら、僕らはその舟に望んでもないのに乗り移って同じようなことを繰り返しているのだろう。