水溜まり。

日々思ったことを書いてみる

川を眺める

たまに近くの川の流れを見に行くことがある。

川を眺めているとちょっとした発見があったりする。

川は水が流れているわけだけど、流れる水は常に違う。

同じ状態は見ることができない。

じーっと見つめている川の水は次へ次へと違う水がやってくる。

これを見ていると諸行無常を感じる。

そんな感じで自分の体の中の血も流れているのだろうと考えると、自分は時々刻々と異なる自分を重ねて生きているんだなと思う。

自分の手の感触に集中するとドクドクと流れている感じがわかる。

自分の体に血が流れているんだなとわかる。

この血はずっと流れていて常に違った状態になっている。

諸行無常だなと感じる。

同じ自分は過去にも未来にもいないということになる。

ということは自分なんてものはないという考えもなんとなく理解できる。

バカボンド面白すぎる

この漫画すごい。

なんかすごいよ。

仏教的な考えが宮本武蔵を通して入ってくる。

物語としても面白いしちゃんと仏教で面白い。

 

天によって完璧に決まっていて

それが故に完全に自由だ

沢庵が言っていたこの言葉が好き。

水がそれだと気づく武蔵。

水自身は決めていない。ただ従っているだけ。

なるほどと思った。

 

川は見てて諸行無常を感じる。

一時として同じがない。

その水が流れていったら、その水はもうそこにはない。

もう一度その水がここに流れてくることは・・・

もしかしたらあるかもしれないか、少なくとも僕が生きている間、そして僕がその川を見る時間帯ではありえないだろう。

 

決めずにただ従う。

なんとなくわかりそうで分からないけど。

僕らはただ流れているだけなのだろう。

その流れに逆らったり、抗ったりするから。

苦しんだり、辛かったりするのだろう。

自然を自然からもっと学んでいきたい。

川とか空とか見て。

仏教的な考えとか

般若心経の中の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」について。

色は空ではなく、空は色ではない、つまり色は空であり、空は色である。

 

これを全く知らない人に説明するとしたらどう説明したらよいものかなんてよく考える。

自分自身も分かり切ったわけではないけど。

でも、なんか自分の解釈を伝えられたらいいなと思ってしまう。

 

僕は色が物で、空は現象というもので解釈している。

この世の中は現状の塊で、常に現象だらけで動いている。

 

テーブルの上にリンゴを置く。

そのまま置いておく。

この状態をみて、普通は何も起きていないと解釈する。

しかし、実際にはリンゴはリンゴであり続けようとしている。

その証拠に何もせずにそのまま1ヶ月後放置したリンゴを想像してほしい。

リンゴはどうなっているだろうか?

当然今のままを保っていないはずである。

腐って異臭を放っているかもしれない。

つまり、リンゴはリンゴであろうとしていてその現象が発生している状態なのである。

リンゴは動いていないわけでもなく、活動していないわけでもない。

リンゴであろうという現象が起きている。

 

そう考えるとこの机もキーボードもパソコンも部屋も地面も全てそれ自身であろうという現象が常に動いている。

現象が無限にある状態。

僕らは現象と現象の間に生まれた何か。

それが色。

でも色というのは物体としてあるわけではない。

だから色は空で、空は色なのだ。

という解釈をしている。

 

現象の塊なのだから自己とか他者とか良いとか悪いとかない。

二元論への否定というのもなんとなくわかる。

仏教が自己を否定するというのもなんとなくわかる。

結局現象のサラダボールでできたのがこの宇宙であれば、「僕」という存在もどこからどこまでなんて言う線はないのだろうと。

 

バカボンドを最近読んでいるのだが、仏教を勉強したあとにこの漫画を読むととても仏教の漫画と感じる。

「我が剣は天と一つなり」

「天は笑わない、ただ微笑んで眺めているだけ」

「天下無双なんてない、天下のすべては一つ。ふたつとないものであるから」

とかいろいろここでは細かく書けないけどとても仏教的な感じがする。

 

そうなると一神教の宗教とは真逆の考え方という感じもする。

この天の下では全て平等同じものとして考えるなら神様も同じものとして考えることになってしまう。

 

エヴァンゲリオンとかの人類補完計画もなんてことなくなってしまう。

全部同じ天の一つのものと考えると皆一緒になるなんてことはない。

そもそも同じ現象の塊同志だから。

 

 

人の話が聞き取りづらい

僕はこれに近いものがあるんだけど、

会話しているなかで人の話が聞き取りづらいことはよくある。

聞き取りづらいというか理解するのに追い付かないことがある。

雑音の中で話するのも苦手。
むしろその中で会話なんて成立するわけないのになぜ話かけるのだろう?くらいに思っている。
雑音の多い中で話をしても聞き取れるわけがないだろ?と思う。

 

自分のなかでは早い会話がついていけない。

なかには早口の人とかいるけど内容が入ってこないことが多い。

仕事でも会話がトントンと進むと結構困る。

流れに乗っていけない。

Aの話題していてそれについて議論してああでもないこうでもないという話があると耳に入ってこなくなる。処理が追い付かなくなる。

いつのまにかBの話題になってAの話題に戻ってももはや何の話をしていたのかわからなくなる。

自分の思考処理が遅い、頭の回転が遅いのか?と自虐的にもなったりして辛かったりする。

 

この漫画の通り耳に支障があるわけではない。

健康診断の結果は問題ない。

医者に相談したこともあるが「注意が足りないんじゃない」ということも言われた。

この言葉は結構きつかった・・・

医者はこういうことを言わないでほしい・・・

「あなたのせい」的なことを言わず、「医者の私でも良く分からないのです」と言ってほしい。

マジで傷つくから。

 

この漫画の中でエスパーになるという話がある。

自分もまさにそうである。

聞き取れない、頭の中で処理ができないので、こういったことを話そうとしていたんだろうなと勝手にエスパーして会話する。

当然、合わないこともある。

 

この漫画には描いてないけど、話を聞きながら何かをするのが苦手だ。

というか作業できない。

話に集中しないと無理。

なかには作業しながら話をしていて「この人話聞いていないんだろうな」と思っていても、その人が話を振られても問題なく回答できていたりする。的確に回答できていたりする。

むしろ自分のほうが話の流れが良く分かっていなかったりする。

 

聞き取り困難症(LiD)、聴覚情報処理障害(APD)だと主張したところでどうにかなるものでもないんだろうけど、そういった名前があるだけで少し気が楽になるところはある。

発達障害とにたようなものだ。

しかし、これを理解してもらおうというのは難しいだろうな。

みんなできているんだろうから。

できているんですかね?本当に?

僕には信じられなかったりする。

 

こうなってくると人との会話が苦手→人との付き合いが苦手という流れになってしまう。

もっとお気楽に考えればいいのだろうけど。

それを重く考えないように、そんな自分を受け入れることが今の自分の課題である。

自分の手と自由意志

子供の頃よくやったこと。

 

手を動かしてみる。

親指を動かそうとして動かしてみる。

親指が動く。

あ、自分の意志で動いた。

それがなんだか不思議に思った。

 

その動かせといった意志はどこからやってくるのであろうか?

その意志はどうやって作られたのだろうか?

 

大人になってやってみる。

手を開いて親指を動かそうとすると親指が動く。

中指を動かそうとすると中指が動く。

人差し指、薬指、小指。

全部自分の思った通りに動く。

 

逆に何もしないで手を眺める。

じっと眺めて何もしないようにする。

そうすると、ピクリと動いたりする。

ちょっと震えたりする。

自分の意図とは別に動いたりする。

それが面白かったりする。

 

でも自分の意図で動かないのは当たり前で、

自分の心臓とか細胞一つ一つも自分の意図でどうこう動いているわけじゃない。

なら、指がちょっと動くくらい、自分の意図とは関係なく動いたくらいどうってことないのかもしれない。

じゃあ、どこからどこまでが自分の意図なのだろうか?

 

この記事を書くのにキーボードをカタカタ打っているわけだけど、

あるていどブラインドタッチでキーボードを打てるので、概ね勝手に動いていたりする。

親指を下げる、上げる。次に人差し指を少し右にずらして下げる・・・

なんて全く考えていない。

なにかに操られるようにして動いている。

変換に何度も失敗するとイラっとしてスペースの親指のキー入力が強くなった。

この時にも強く打とうという意志があったのかもしれないけど、

ここでスペースキーめがけて親指を強く打とうという命令をしようなんて思いはなく

勝手に強く打ったようにも感じる。

 

自分は思った以上に自分の体を思った通りに動かせていない。

そんなようなことを武井壮が言っていたような気がするけど、まさにそうだと思う。

そうなってくると自分の自由意志とは何か?なんて哲学的な話に対して、自由意志なんてないというのも納得できるような気がする。

 

僕だけだろうか?

手のひらを顔の前にもってきてじっとすることができるだろうか?

勝手に指が曲がることはなくても、すこし指が左右に動いたりしないだろうか?

なんかそれを眺めていると勝手に動いている別の生き物のようにも見える。

なんとなくそれが面白いと思った。

知識欲という煩悩

www.youtube.com

 

山田礼司が大事なことを言っているので自分なりに整理。

会ったこともない人に文句をつけたくなる人は2つの問題を抱えている。

1.相手を知らない

どうせこんな奴だろうというのが羅列されている。勝手なイメージ象がある。

2.その人の人生の問題

上手くいかなかった何かがうまくいっている感じに見えるやつに対して即攻撃モードに入る。

それによって報われなかった気持ちを解消したいという思い

 

「2.」のこれがとても印象強かった。

ここで言っている「上手くいかなかった何か」「報われなかった気持ち」というのに注目したい。

何がうまくいかなかったんだろう?

何が報われなかったんだろう?

仮にみのが出した邦楽通史の本が成功、報われた結果なのだとしたら彼らにとってなにが問題なのだろう?

 

これは知識を追い求めた知識欲の結果なのかなと思う。

動画内で山田礼司も

ディグればディグるほど知識が入る

と言っていて知識欲って際限なく続く。

 

僕は子供のころ図書館の資料を全て知り尽くしたら最強だろうな・・・なんて思ったことがある。

そう思うたびに本に立ち向かったことが何度かあるが、何度も挫折した。

1冊読むだけで重労働だから。

読むだけではいけない。それを頭に入れないといけない。

頭に入れたうえで、正確にアウトプットしないといけない。

ここでいうアウトプットは口でも文章でも同じだ。

そしてそのアウトプットが分かりやすくないといけない。

分かりやすくないとどんなに内容が正確で、正しくて、真実であっても見向きもされない。

 

でも知識ってあるととても印象良く見える。

僕は知識がないほうだからなんでもかんでも知識(ウンチクとか、雑学とかそんな感じの物)をもって会話できる人がうらやましくいる。

というか憧れでもある。

なので、僕は頑張った時期がある。

僕もああなりたい!

会話の中で知識を披露したい!

しかしまあことごとく失敗するわけですよ。

まず知識を入れるっていう作業。

これがもう勉強でしかないんですよ。辛いんですよ。

英単語を覚える、歴史の年号を覚える、漢字を覚える。

これらと同じ作業をしていると感じている。

なのでこの知識を入れるという作業が苦痛でしかないわけです。

つまらないのです。やりたくないのです。

なんとか覚えたとしても会話で伝えるときに正確にアウトプットができない。

なんなら「それって○○じゃない」と指摘されるほど。

せっかく頑張って得た知識を披露しようとするどころか、こちらが学ぶ側になるという残念さ。

そのたびに恥ずかしい思いをする。

 

逆に山田礼司、みのは知識の怪物みたいなものだと思う。対極にいると思う。

山田礼司は漫画のYouTubeで良く見たことあったのですが、音楽にも詳しいんですね・・・

 

周りの人も山田礼司、みのほどでなくても知識を持っている。

なんでそんなことまで知っているんだ?というくらいにみんな知っている。

僕はほとんどないので立ち往生。

みんな努力しているんですかね?

家で必死に勉強しているか・・・

でもそうは思えない。

 

何が言いたいかというと、知識って手に入れるのって辛い。

なんか「がんばる」っていう部分が必要な気がする。

ある程度は楽しんで得られるんだけど、ある一線を越えると頑張って手に入れないといけない苦痛になってくるものだと思う。

そうまでして手に入れるのは「知識があるとなんかこいつ知っている!」という風に見られる見栄みたいなものがあるのだと思う。

その一線は人によって異なる。

フルマラソンでいえば僕は1km先で苦しんでいるけど、山田礼司、みのみたいな人は42.195kmを超えても「まあ苦しいけど楽しいよね」なんて言ってられるような人なのだろう。

 

知識って怖い。

毒にもなるし、薬にもなる。

でも入れすぎると中毒になる。

求めすぎて収拾つかなくなる。

そんな煩悩なのだと思う。

音楽には新しいも古いもない。

音楽には新しいも古いもない。と考えてみる。

 

僕は1982年生まれでどちらかというと90年代の音楽が世代。

なので、僕は80年代以前の音楽を聴くとなったら古い音楽と感じる。

 

しかし、それは古いという印象をつけられているだけで自分個人にとっては「聴いたことがない音楽」なのだから本当は新しい音楽なのだと思う。

古い曲は音質が悪いが、それは悪いのではなく「その時代の音質」なわけであって、人によってはその音質が心地よいものだったりするのだと思う。

むしろその音質というのはその時代にしかだせない。

もちろん限りなく近くは再現できるのだろうけど、当時使っていた機器は今にはないのだからその音質は正確に再現できない。

キングクリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」なんか聞くとちょっとこもった感じで古めかしいとは思うものの、この音質を今出すのは難しいと思う。

当時は技術がないので選択肢がないというものあるけど、今はその選択肢はあるもののその音質を選ばない。選ばないというか選べない。

現代の一般的な趣向に合わないからその音質を使わない。

つまり結果的にこの音質で音楽を聴けるのは当時の音楽だけということになる。

 

こんな思考実験をしてみる。

生まれてから今の時代だけの音楽を聴いて、古い音楽を全く聴かず、今ある音楽だけが全てだという状態で古い音楽を聴かせたらその人はどんな反応をするのだろう?

「これは古い曲だ」という反応になるのだろうか?

それとも「なんだか斬新な曲だ」という反応になるのだろうか?

 

海外の人は日本の音楽の新しい古いがわからないから、「古い音楽」という印象が少ない人たちなのだと思う。

音質とかで多少わかるのだろうけど。

最近のシティポップが海外で盛り上がっているのはあちら側からしたら今までに聴いたことない斬新さがあるのかもしれない。

レコードという存在もしらない民族であれば古い音質、新しい音質という概念もないので、「お富さん」を聞かせてもYOASOBIの「アイドル」を聞かせてもどちらも「斬新な曲だ」になるんじゃないかと思う。

 

以降は余談。

「お富さん」という曲があるが僕はその曲を聞いたのは夏祭りの盆踊りの時だった。

僕はこの曲が好きだった。

ただ、この曲は昔からあるという印象が強くあり、僕にとってなんとなく江戸時代からあるものだと思っていた。

当然そんなわけはないのだが、後にいつ作曲されたものかを知って驚いた。

明治でも大正でもなく、昭和初期(1954年)なのだ。

なので「お富さん」は昭和の歌と知った時は驚いたものだ。

そもそも演歌もなんとなく明治時代、大正時代にあったんだろうなというイメージだったのだが、1960年代半ばくらいにできたもので「お富さん」よりも新しいジャンルなのである。

これを知って僕は自分の聴いていた世代より前の物は古い、自分の聴いていた世代より後の物は新しいというものすごくざっくりした区切りをしていることが分かった。

そいうのを知っていくともっと面白いかもしれない。