こういったネタは大好物です。
確かに釈迦は信仰を勧めていたわけではなく、むしろ良くないことしていたのに仏教はすっかり「仏を信仰」という形になってしまったと思う。
でもしょうがないんでしょうね。
釈迦だって教えを広めようとしていたわけで。
でもその教えというのは結局どういうことなんだと追求していく人はどうしても出てきてしまう。
自分もそう思ってしまう。だから仏教の本を買いあさっている。
でも釈迦が言うには絶対なんてないし、真理ってものもないといっているのだから、釈迦の教えが絶対だということにならない。
じゃあ何なんだよ!教えてくれ!俺は何を頼りに生きていけばいいんだあああ!っとなってしまう。
でも釈迦から言わせてみれば「それ!そういった執着がいけないんだよ!」ってことなんでしょうけど。
でもそれって
釈迦の教えがある→その教えを真に理解し従おうとする→それにすがるのはNG。
ってなことなわけでなんだか禅問答って感じがする。
やっぱり人は「正解」を求めたがるんでしょうね。
大乗仏教への批判的な内容も書かれていましたが、大乗仏教は入口としてはとてもいいものかなと思う。
大乗仏教って「結局修行をしている人だけしか救われない、ということは坊さん以外は救われないじゃん!農業とかやっている俺らダメじゃん!」という人を救いたいがための考えなわけで。
そこを起点に仏教に興味をもって仏教の教えに触れていけばいいんじゃない?という意味では意義のあることなのかなと。
大乗仏教はわかりやすい。
究極、南無阿弥陀仏さえ唱えときゃいいなんて宗派もある。
分かりやすい!
執着とか空とか瞑想とかより全然分かりやすい!
勉強とか教養とかもそうだけど、いきなり難しい話、いきなり原典から入ったって無理。
わけわからんで終わってしまう。わけわからんで眠くなってしまう。
だったら少し本来の思想、考えからずれていてもいいから、そこから入っていくのでもいいんじゃないかと思う。
分かりやすい本から入るべき。動画でもいい。
だけど分かりやすいものって若干ずれがある。
下手したら大きくずれてたりする。
でも入口に入らないとそもそも始まらなかったりする。
この入口をふさぐ必要はないが、原理主義な人は結構ふさぎがち。
「この人の言っていることはデタラメだ!」という。
たしかにデタラメかもしれない。
下手したら嘘ついているかもしれない。
でも、まったく興味持たなかった人が興味を持つようになった、というのはとても大切なことだとおもう。
いわゆるニワカが増えるわけで、そのニワカもデタラメ、嘘の部分で盛り上がってしまって本来の思想、考えにたどり着かなかったりすることが多いけど、少なくともその中から数人は本当に伝えたい思想考えに興味を持つことができる。
分かりやすい情報がなければその数人すら本当に伝えたい思想考えにたどり着かない。
いまの仏教は正直元の仏教とは別物だと思う。
でもそれを全否定するのもちょっと違うと思う。
勝手な思いですが、イエスキリストもそこまで自分を崇拝してほしかったわけじゃないんだろうと思う。
そんなことよりも「隣人を愛せよ」とかそういった道徳てきなことを大切にしてほしかったんだけろうけど、あまりにもカリスマ性があったんだろうね。
あまりにもカリスマ性があって、伝説の人になってしまって。
その伝説が人から人へと伝言ゲームされて行って。
しまいには神になっちゃった。
ブッダは仏になっちゃった。
そしてそれが聖書なり経典なりになっちゃったんだろうな・・・