般若心経の中の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」について。
色は空ではなく、空は色ではない、つまり色は空であり、空は色である。
これを全く知らない人に説明するとしたらどう説明したらよいものかなんてよく考える。
自分自身も分かり切ったわけではないけど。
でも、なんか自分の解釈を伝えられたらいいなと思ってしまう。
僕は色が物で、空は現象というもので解釈している。
この世の中は現状の塊で、常に現象だらけで動いている。
テーブルの上にリンゴを置く。
そのまま置いておく。
この状態をみて、普通は何も起きていないと解釈する。
しかし、実際にはリンゴはリンゴであり続けようとしている。
その証拠に何もせずにそのまま1ヶ月後放置したリンゴを想像してほしい。
リンゴはどうなっているだろうか?
当然今のままを保っていないはずである。
腐って異臭を放っているかもしれない。
つまり、リンゴはリンゴであろうとしていてその現象が発生している状態なのである。
リンゴは動いていないわけでもなく、活動していないわけでもない。
リンゴであろうという現象が起きている。
そう考えるとこの机もキーボードもパソコンも部屋も地面も全てそれ自身であろうという現象が常に動いている。
現象が無限にある状態。
僕らは現象と現象の間に生まれた何か。
それが色。
でも色というのは物体としてあるわけではない。
だから色は空で、空は色なのだ。
という解釈をしている。
現象の塊なのだから自己とか他者とか良いとか悪いとかない。
二元論への否定というのもなんとなくわかる。
仏教が自己を否定するというのもなんとなくわかる。
結局現象のサラダボールでできたのがこの宇宙であれば、「僕」という存在もどこからどこまでなんて言う線はないのだろうと。
バカボンドを最近読んでいるのだが、仏教を勉強したあとにこの漫画を読むととても仏教の漫画と感じる。
「我が剣は天と一つなり」
「天は笑わない、ただ微笑んで眺めているだけ」
「天下無双なんてない、天下のすべては一つ。ふたつとないものであるから」
とかいろいろここでは細かく書けないけどとても仏教的な感じがする。
そうなると一神教の宗教とは真逆の考え方という感じもする。
この天の下では全て平等同じものとして考えるなら神様も同じものとして考えることになってしまう。
エヴァンゲリオンとかの人類補完計画もなんてことなくなってしまう。
全部同じ天の一つのものと考えると皆一緒になるなんてことはない。
そもそも同じ現象の塊同志だから。