水溜まり。

日々思ったことを書いてみる

義務教育にリコーダは必要か

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ちょっと前の動画だけど面白いなと思って、自分なりの教育について考えを書いてみようと思った。

動画の中でミートたけしは「何が役に立つか立たないかなんてわからない、だからリコーダは義務教育に必要なくない?という考えはナンセンス」と言っていて自分も同じ考えである。

 

僕は学生のころ、歴史をなぜ勉強しているのかわからなかった。

いい国作ろう鎌倉幕府とかの年号覚えたり、墾田永年私財法とかよくわからない名前の出来事を覚えたり。

とにかく暗記というイメージが強い。

何かを覚えるというのはとにかく苦手だったので、歴史は苦手だった。

なによりも何に役に立つのかよくわからなかった。

「ああ、学校で墾田永年私財法習っておいてよかった」なんてことは僕のなかでは一度もない。

私感だけどそんなことを思う人はほぼいないだろうと思う。

 

でも最近は歴史というのを自身で学ぶようになった。

学ぶというか知って面白いと思うようになった。

「そういった歴史があるから今こうなっているんだな」

「昔も今も人間は同じこと繰り返しているんだな」

とかがわかるようになって面白いと思うようになった。

 

これが大事なんだと思う。

「面白い」と思うこと。

墾田永年私財法もいまだにどんなものなのか良くわかっていないけど、なんでこの法ができたのか、その背景は何なのか、今でいうとどんなことなのか。

そういったのがわかると面白いんだろうなと思う。

ちなみに僕は日本史、世界史よりもホモサピエンス史にとても興味がある。

人間が人間たらしめるものはなにか?

今と昔とで同じことは何なのか?

こんだけデジタル社会になって便利になったけど、結局僕らはホモサピエンスより幸せなのか?

なんてことを知ったり考えたりするのは面白い。

そうすることで、結局人間ってこういいたものなんだなというのがわかってくる(気がする)。

 

話し戻して、歴史が役に立つかどうか。

正直役に立つかどうかなんてわからない。

もし、僕がまったく歴史を知らなかったらどうなるのかよくわからない。

戦争のこととかどう見るのかよくわからない。

もし歴史を習っていなかったら今頃日本の中で「戦争すべきだ!」という人がいるのだろうか?

しかし、戦争ってのは起こすものではなくて、流れでそうなってしまったものと僕は考えるので、歴史があって初めて防げるものでもないような気がする。

なんなら、すべての人類、プーチンさん含め、歴史を勉強すれば戦争がなくなるわけだけどそうなっていない。

むしろ悪化しさえするものだと思う。

今の苦しい生活があるのは○○があったから、という歴史を覚えさせたらそれはそれで戦争のネタにもなるわけで。

なので役に立つのか立たないのかはよくわからないと思う。

 

そんな歴史を学校で勉強すべきか?

すくなくともリコーダよりは役に立ちそうだ。

でもどうなんだろう?

本田雅人は学校のリコーダがあったからこそここまでこれたみたいな話もしていたけど。

本人も言っている通り、自分で学ぶことができるものと言っている。

僕もプログラミングは独学で学んだ。

趣味レベルだけど、ピアノも独学で学んだ。

当然大曲は弾けないけど、簡単なPOPの曲なら弾けるわけで。

それを毎日ガリガリやり続ければ何でも弾けるようになるんだと思う。

でも弾かない。

なぜならそんなにがんばれないから。

そこまで音楽に熱い思いがないから。

毎日弾くのはしんどいから。

 

本田雅人がリコーダを吹いていたのは他にやることがなかったからと言っているけど、それはほかの人も同じだと思う。

やることないからみんなリコーダを吹き始めるかというとそうではない。

じゃあ、なんで本田雅人はリコーダを吹き続けたのかというと、単純に好きで面白いと思ったからなのだと思う。

本田雅人には失礼かもしれないけどリコーダを吹くことは普通の人は退屈だと思う。

ピアノくらいの楽器になればかっこいいと言われるかもしれないが、リコーダでは異性にモテるとかの効果も望めないと思える。

周りの人に自慢するにもリコーダを選ぶのはちょっと選択肢として良くない気がする。

それでも吹き続けたのは本当に好きだからというしかないと思う。

そんな純粋な気持ちは僕にはない。

 

でもリコーダに限らず、勉強だって同じで、好きになれば一生懸命知るようになるし勉強するようになる。

どんどん伸ばしていずれは何かに役立つことになるかもしれない。

本田雅人はそれがリコーダであった。

ある人は数学かもしれないし、歴史かもしれない。

図工かもしれないし、保健体育かもしれない。

 

学校でおしえることが役に立つかどうかは人次第だと思う。

ドラえもんの道具だって使い方次第で人を救えるし世界を征服だってできる。

ましてや、なんにも役に立たないかもしれない。

知識というのはツールであって、それをどう使うかは人次第だと思う。

 

学校がやっている教育というのは「こういった世界があるんだよ」というものの一つなのかもしれない。

リコーダという楽器があり、音楽という世界がある。

歴史という勉学があって、世界の歴史はこのような感じと言われている。

そこで興味を持つ人がいたらいいじゃないかという考え。

とはいえ、それは学校がなくても本田雅人のような人は興味をもって自分で勉強しだすのではないかといわれたらそうかもしれない。

だから、役に立つか立たないかなんて話をしたら、そもそも学校っているの?って話でもあると思う。

僕はそういった考えがあってもいいと思う。

合う合わない関係なくいろんな人がサラダボールになっている教室に押し込められるのは自分も結構苦痛だったので、オンライン授業とか、自分で学びたいものをYouTubeとかの動画で学ぶとか。

そんなことも考えていっていいと思う。