川の流れのように
川をじっと見てると不思議な感覚になる。
「川」というもので見ると「川」という一つの個体としてとらえるけど、当然ながら川には水が流れていて、その水は絶えず上から下へと動いているわけで。
その水の流れは一つとして同じではなくずーーーっと「違うもの」が永続的に行われている。
人生もまた川の流れと同じように思っている。
何か理由があるわけではなく、意味があるわけではなく。
ただただ流れていて、同じことは起こらず、絶えず「違うもの」が行われている。
自分自身もすぐその感覚を忘れてしまうけど、絶対的に同じものなんてないわけで。
川を見てるとその感覚を得られる。
川には縁がある。
いや、川だけに限らないけど、この水はもしかしたら誰かの一部だったのかもしれない。
誰かのつばだったり、おしっこだったり、うんこの一部だったり、血だったり。
もしかしたらそれは綺麗なお姉さんだったり、汚いおっさんだったり、犬だったりネコだったりの一部だったかもしれない。
その一部が分解されて、蒸発されて、雲になって雨となり、それが流れてきている。
今まで約700万年の人類の歴史があるのだから、この川も誰かの一部の集まりなのかもしれない。
だから人の死というものも、人が勝手に作り上げた幻想であって、”ただただ地球の一部になるだけなのだ。”という考えが間違っていて、そもそも僕は地球の一部でしかない。
炭素とか窒素とか水とか鉄とか。
よくわからんけど、なんかの分子の集合体。
細胞一つ一つが動いて、今何かを見ている、感じているというイリュージョンが見える。
区別というのは人間が勝手に決めつけたものであって、本当はそんなものはないというのはそういうことなのかもしれない。
仏教のいう「私」「個人」がないというのはそういうことなのかもしれない。
例えばリンゴがテーブルの上に置いてあるとする。
そのまま何もしない。
ただリンゴが置いてあるだけ。
でもそうじゃない。
リンゴは何もしていないわけじゃない。
リンゴはリンゴであろうとしている。
なぜならリンゴは1ヶ月そのまま置いておいたら腐ってドロドロになるはずだから。
だから、リンゴはリンゴであろうという現象が今まさに目の前で起きている。
静かな現象が起きている。
何も起きていないわけじゃない。
常に現象は絶えず起きていて、それによってその形を形成しようとしている。
僕のこの体もそうだ。
なにもしなくても現象まみれである。
現象まみれというのも変な話である。
だって、この世の中が現象で成り立っているのだから。
僕らの目では何も動いていないように見えていても、動いている、流れている。
僕らが勝手に決めた時間軸で「何も起きていない」と判断するから動いていないように見えているだけ。