水溜まり。

日々思ったことを書いてみる

AIによる幸福への道(SF物語)

ある時、ある時代。

AIの指示に従った1万人の90%が幸せになった、良い結果になったと言った。

AIの指示に従わなかった1万人の20%が幸せになった、良い結果になったと言った。

 

この結果によりAIは浸透していった。

それにより幸せになった人の割合が多くなった。

犯罪は減り、秩序は安定していった。

しかし、AIの指示に従っても良い結果にならないことが多い人がいる。

全くならないわけではないが、ほかの人に比べて悪い結果になることが多すぎるという人がいる。

彼は苦悩した。AIを疑った。

AIに従わないほうが良い結果になるのではないか。幸せになるのではないか?

 

あの人は彼にこういった

「君は物事をなんでもかんでも悪く見すぎなんだよ。AIの結果が悪いわけではない。君の天邪鬼な心が君を不幸にさせ、悪い結果とさせるんだよ。」

彼はその言葉を疑いつつも、改善しようと思った。

自分は天邪鬼なのだ。もっと素直になろう。

そうすることでAIの指示にもっと忠実になろうとした。

そしてその結果を良いものとして受け入れようとした。

しかしどこかで疑ってしまう。

「本当にこれでいいのか?僕はただ騙されているだけじゃないのか?本当は悪い結果になっているのに、良い結果なのだと洗脳されているだけじゃないのか?」

 

ある日、彼は最愛の人と分かれることとなった。仕事もなくなった。

彼はなにがなんだかわからなくなった。

彼はこれを良い結果として受け入れることはどうしてもできなかった。

彼には理解者が必要だった。

アンダーグラウンドのネットで同志を募った。

同じ境遇、同じ考えの人は多くはいないが徐々に集まってきた。

最初はちょっとした愚痴の共有程度の集まりだったがやがて規模が大きくなり、数百人の集まりになった。

情報が監視されている中でここまで集まるのはたやすいことではなかった。

 

彼は言った。

「我々はAIの指示に頼らずもっと自分の意志で生きていくべきだ!!」

AIに対する反乱を起こすことにした。

数百人の中から選りすぐりの先鋭部隊を作りテロを起こした。

 

……その先どうなったか?

1.AIに従う人たちの勝利(ケース1)

AIに従う人たちはAIの精度を上げ、その指示に従った。

AI反乱集団にどのように語り掛け、どのように説き伏せたら落ち着くかの細かい指示があった。

AI反乱集団は見事にAIに従うようになった。

その結果。

AIの指示に従った1万人の100%が幸せになった、良い結果になったと言った。

もうだれもAIを疑う人はいない。

人類みな全てがAIによって幸せになり、AIの言うことを聞くようになった。

 

2.AIに従う人たちの勝利(ケース2)

AIに従う人たちはAIの指示に従った。

AIは反乱集団をどのように排除すべきか指示した。

見事反乱集団を抹殺した。

その結果。

AIの指示に従った1万人の100%が幸せになった、良い結果になったと言った。

もうだれもAIを疑う人はいない。

人類みな全てがAIによって幸せになり、AIの言うことを聞くようになった。

 

3.AI反乱集団の勝利(?)

最終的にAI反乱集団は皆捕まり刑を受けることになったがその思いは全世界に届いた。

AIに従うことが幸せのすべてではないとなった。

全世界の人たちはAIを使う時もあるし使わないときもあった。

幸せとはAIでつかむものではないとなった。

そして、何が幸福でなにが幸福でないかという問いに再び悩むことになった。

音楽はお手軽に

突然ですが、皆さんはどちらの曲を聴きたいと思うでしょうか。

 

1.好きなアーティストが1年かけて作った曲

2.あなたの好みを知り尽くしたAIが、今のあなたの状況、感情を知ったうえで、数秒で作った曲

 

ただの思考実験になるわけですが。

なんとなく「2.」はちょっとつまらなそうな感じがしてしまう不思議。

 

音楽はどんどんお手軽になっていって、昔は現地に行かないと聞けなかったものが今では家の中でお手軽に聴ける。

それもレコード→CD→mp3→サブスクとなっていって

今では家でなくてもいつでもどこでも聴けてしまう。

レコードがない時代では自分で演奏してその曲を聴いていたりしていたらしい。

そのためには楽譜が必要だった。

だから楽譜というものは偉大な存在だった。

 

音楽は本当にお手軽になった。

でもその代わりに神秘的な要素というものはどこか失われて言っているんだろうなと思う。

 

理系の人間だったけど文系を大事にしようと思った

僕は理系の人間だった。

数学ができる!というよりも国語、社会が苦手だった。

どうも解が一つに定まらないような問題というのは苦手だった。

暗記するというのが苦手だった。

 

今でも暗記というのはどうも苦手だ。

物事に関心がない、興味がない人にとって暗記というのはどうしても苦でしかない。

 

中学で数学のほうが好きだった。

高校で理系と文系で選択することになったが迷いなく理系を選んだ。

大学ももちろん理系である。

仕事をするうえでも理系のほうが仕事がある言うし、僕は理系であることに問題はないと思っていた。

というかなんとなく今後は科学の時代なのだから理系の人が増えてくるとすら思っていた。

科学が進めば知識を覚えるという必要もない。

知識を覚えるというのは苦手だ。

単語とか人名とか固有名詞は覚えられない。

でもGoogleとかで調べられるのであれば、知識というのは持たなくて問題ないと思っていた。

 

でも最近はそうでもないと思っている。

文系というのも大事だと思っている。

そもそも文系と理系でわけるのもなんだか変な話である。

この世の学問がそんなに簡単に2種類に分けられるものでもない。

僕が言っている文系という分野は哲学とか宗教学、神学とかそこらへん。

科学の時代が進めば、もうそんなものは必要なくなっていくのだろうと、なんとなく思っていた。

科学が発展していけば宗教、哲学はいらなくなると思っていた。

現に僕は今それを必要としていない。

でもどうやらそうではない。

残念ながら僕は宗教の中にいる。

宗教の中に生きている。

科学ということを信じ切っていた。

それは宗教の一つでしかない。

宗教とは何か、科学とは何か。

そういったことを哲学していく必要がある。

 

そうなってくると文系というか宗教学というか哲学みたいなものが必要なのだと思う。

宗教学というか哲学みたいなものは答えは一つじゃない。

というか答えがない。

国語でさんざん嫌がっていた一つではない答え。

でも世界はそういったものだらけでできていた。

科学でさえ、完全な解が一つであるわけではない。

そこにはある程度の「だいたいこうだよね」「こういうことにしておこう」という考えで構築されている。

 

理系として生きていたけど、これからは文系の学問を大事にしていきたいと思う。

 

AIが仕事を奪うことになるか

AIが仕事を奪うことになるか。

なんて議論はこれまで何億と語られてきたのだろうけど、個人的な意見としてはとっとと奪ってほしいと思う。

でも奪われることはないと思う。

 

まず、奪ってほしいと思うという点。

仕事したくないじゃん?

普通にそう思うわけだけど、みんなそんなに仕事したいんですかね?

僕はあまりやりたいことなんてないんでやらなくていいのであればやりたくないです。

みんな熱心にやっているかというとそうでもないと思う。

なので奪うなら早く奪ってくださいと思う。

 

仕事を奪われて何をするのか?という話になるけど、そもそもなんで仕事がないと生きていけないという考えなんですかね?

それが奪われることはないの一つだけど、人間が仕事をしないと生きていけないと思っている以上、AIが仕事を奪うことなんてないと思う。

というかどんなに奪っても人間は仕事を作るのだと思う。

仕事というよりも生きている価値かな?

 

極端な考えってあまり好まれないのかもしれないけど、仮にAIが全部やってくれるようになったらどうなるか?

古いけどドラえもんの映画のブリキのラビリンスではそれが描かれていてとても面白い。

【以降ネタバレなので注意】

 

 

 

そこではAIということばではないけどロボットが全てやってくれる世界。

人が必要な衣食住のものは全てロボットが作ってくれる。

人は指一本動かさなくても生きていける。

ロボットの開発者はいたけど、開発するのもめんどくさくなってロボット開発もロボットがやる。

つまり人はなにもしない。

この映画では仕事という言葉は出てこないけど、人は何もしなくても衣食住が揃うのだから仕事なんてないんだと思う。

ドラえもんの映画は物語なので、もちろんここから良くないことが描かれる。

人は何もしなくなったことによって体が弱ってしまった。

体が弱くなったところを狙ってロボットが人を襲撃し始める。

 

AIが襲撃ということは現実で起きるかどうかということはさておき。

僕はそれよりも「人がなにもしなくても生きていける」ということができるかどうかが気になるところである。

何もしなくて良いのだ。

エンターテインメントも多分AIが作ってくれる。

アーティストが作るんじゃなくて、その日の気分で自分が見たいものを注文したら作ってくれる。

ごはんもその日、その時の気分で作ってくれる。

農家、酪農家なんていない。全部AIがやってくれる。

今日の仕事場に行くための服選び、髪型セット・・・なんていらない。

仕事がないのだから。

仕事もしない、アーティストもしない。

そんな世の中って人は生きていけるのかな?

そうなったら「生きてる意味ってなんだろう?」っていうのが最後に残るような気がする。

これもAIが助けてくれるのかな。

カウンセラーAI。

生きている意味がよくわからなくなった人に対してやさしく諭してくれる。

それによってメンタルもAIが助けてくれる。

 

それってAIに生かされている感じになる。

家畜として育てられている牛と変わりない。

 

それは極端な考えだ。極論だ。っとなるのであれば、

やっぱりAIがどんなに発展しても仕事がなくなることはないような気がする。

「働かざるもの食うべからず」なんて言葉もあるし。

この言葉が残る限り人は仕事をし続けるんだろうなと思う。

仕事をしないと生きていけないという考えをもってこれからも生きていくんだと思う。

 

「有意義な時間を過ごそう」という脅迫

「有意義な時間を過ごそう」というけれど

僕はこの言葉は苦手だ。

 

そもそも僕はやりたいことがない。

趣味がない。

やりたいことがない人が過ごす「有意義な時間」ってなんなんだろう?

 

「今日から3連休なので有意義な時間を過ごそう」

不思議なことに僕のなかではこの言葉が

「今日から3連休なので有意義な時間を過ごさなければいけない」

に置き換わる。

少しずつ小さなやりたいはある。

しかし「せっかくの3連休なのだから」という言葉に対してその小さなことが小さすぎて有意義ではないと否定してくる。

否定しているのは自分自身だとはわかってはいるものの、改善が見込まれない。

 

やりたいことってやっぱりないな。

多くの人もそう思っているんだろうけど。

だからこそ「やりたいことをみつける」的な本が書店においてあるんだろうけど。

「夢、希望レベルでない」のではなくて、「プライベートな時間でやりたいことが特にない」というレベルでない。

 

なのであえて何もしないという行動に出てみる。

座って目をつぶって何もしない。

禅とか瞑想とかマインドフルネスとかそんな大したものではない。

それは禅とか瞑想とかマインドフルネスをしているになるので何もしていないではない。

ただ座るだけ。

それは結構心地よかったりする。

 

学生時代の夏休みも苦手だった。

もちろん学校に行くよりは夏休みのほうがいいのだけれど、いざ夏休みになるとなにもすることがないという恐怖感に襲われる。

よくベットの上に倒れて何をするでもなく寝るわけでもなく天井を見つめていたことが良くある。

よくよく考えてみたらその頃から僕はやりたいことなんてなかったのかもしれない。

でもやりたいことがないことがかっこ悪いと思っていた。

だから何か趣味を作らなきゃ!と焦っていた。

それでやっていたのが楽器だった。

ベース、ギター、ピアノとやっていた。

楽しいと思うことはあっても、趣味を持たなければならないと思っていてやっていた趣味なのでやっぱり苦しいことが多かった気がする。

 

今は楽器は触ってない。

となると無趣味となる。

テレビは好きでもないのでYouTubeを見てたりもするけど、永遠とみれるわけでもない。

 

有意義な時間を過ごすとかやりたいことを見つけるというのは自分にとって脅迫にしか感じない。

何もせずに穏やかに時間を過ごせたら何よりだと思う。

 

「本を読んだほうがいい」

「本を読んだほうがいい」

 

僕は学生自体に良く親に言われたものであるが、

この言葉、えらく雑でいい加減なものである。

 

まず本といってもいろんな本がある。

小説なのか、自己啓発本なのか、専門書なのか、雑誌なのか。

小説と言ってもラノベだってあるし。

雑誌と言ってもファッション雑誌、サイエンス雑誌、アニメ情報雑誌といろいろある。

 

そしてなにより、「本を読んだほうがいい」と言っている本人は大して読んでいない。

この言葉は僕の両親から言われてたことだが、母親は雑誌以外はほとんど読んでいるところを見たことがない。

父親は本は読んではいたが本棚が埋まるほどの本が家にあったわけではない。

電子書籍なんてない時代だから家にないのであればどこにもないわけで。

図書館に行って本を毎日借りているわけでもない。

そんな親が「本を読んだほうがいい」だなんて言っているんだからいい加減なものである。

 

会社でも上司から「本を読んだほうがいい」と言われたこともある。

上司がどれだけ本を読んでいたかなんてわからないけど、これも部下の成長させる方法が良くわからないから適当なことを言っているだけにも聞こえる。

 

とはいえ、本を読むようになった自分としてはやはり「もっと早く読んでいれば・・・」という思いもある。

しかし、今過去に行って「今から本を読んだほうが良い。こんなことやあんなことを知ることができるんだぞ!」と熱弁しても多分なかなか伝わらないだろう。

いや、どうなんだろう?

そもそも本を読むと何がいいのかってなかなか熱弁されたことがないような気がする。

もしかしたらあったのかもしれない。

にもかかわらず僕は右から左へと聞き流していたのかもしれない。

 

「本を読むことに何の意味があるのだろう?」というのが一番思っていたことかもしれない。

「本を読むことは苦痛であり、それを我慢して知識を得るものである」といった認識だった。

勉強の一つにしかとらえられなかった。

面白さ、楽しさというものが感じられなかったし、価値というものよくわからなかった。

もっと「本を読んだほうがいい」の面白さ、楽しさ、価値というものが伝わってくればと思うのだが、それはわがままな話だろうか。

そういっている自分自身もなかなかどう伝えたらいいものか悩むところである。

 

前にもこのブログで書いたかもしれないけど本屋には「本を読む方法」というものを目立つ場所に置くべきだと思う。

「本が読めないあなたへ」

「本を読む楽しさ、面白さ」

「本を読むことで得られるもの」

というかAmazonで調べたらたくさん出てくる。

本屋じゃなくても、学校とかでも置いておくべきじゃないかと思う。

それを置いたとしても過去の自分が「本を読もう!」となるかわからないけど・・・

 

電子書籍になかなか乗り移れない

僕は本を買う時は主にブックオフに頼っている。

 

ブックオフだけで購入しているわけではなく、電子書籍の購入、本屋で購入、図書館でちょっと読むなどいろんな手段で本を読む行為を成し遂げている。

※ここで言っている本というのは自然科学、人文科学的な本のことで小説とか漫画ではない。

 

それぞれいろんなメリットデメリットがある。

今の時代でなんといっても便利なのは電子書籍である。

かさばることがない、暗くても読める、スマホ、パッドがあればどこでも読める。

この便利さにあやかりたいのだが残念なところもある。

当然ながら中古で購入というのができないので値段はほぼ定価で買うことになる。

購入して残念だった本でも売ることができない。

なによりも残念なのは電子書籍ですべての本が買えるわけではないという点である。

電子書籍になっていない本もある。

特に昔の本だと電子書籍になっていないことが多い。

なので全ての本がスマホ、パッドで見れるので楽ちん!という状態に持っていくことが今今の段階では難しいということになる。

あと、電子書籍で嫌なところとしてはパラパラめくれない。

少し前のページに戻って、どんな話してたっけな?というのがやりづらい。

紙だとパラパラっとめくって「確かここら辺に書いてあったはず」で不思議なもので簡単にみつかる。

そして、今現在読んでいるページにすぐに戻れる。

使いこなせていないだけなのか?しかしいまだに「電子書籍が絶対いい!」と言えないところがある。

もちろんいいところもあるので、たまに購入する。

絶対的な良さはすぐに読めるところ。

僕は「今すぐ読んでみたい!」と思ったらその瞬間に手に入れたがる時があるので、そんな場合には電子書籍で購入したりする。

 

電子書籍は嫌だ!というわけではない。

ただ、完全に良いわけではないという点も少なくはないので、中々電子書籍という選択に乗り移れないところである。