水溜まり。

日々思ったことを書いてみる

なにかを信じたい

 

信じる者は救われる。

そんな言葉があるが自分はどうやら信じてるものが少なすぎる。

何かを信じることでやることとかやりたい事とかは自然に決まってるんじゃないかと思う。

そういうものがない人こそ宗教にハマるのではないかと思うが、自分はどうもそういったものになりそうにない。

非常に懐疑的だと思う。

非常に疑い深い人だと思う。

信じる者は救われる、というところから大きく離れてると思う。

誰かをリスペクトしたり、尊敬したりも少ない。

リスペクトしたとしても、いずれ冷めてしまう。

リスペクトしつつも疑ってしまう。

 

それは正しいことなのかもしれない。

この人が言ってることがすべて正しいなんてことは有り得ないのだから。

だから自由気ままにリスペクトしたり、離れたり、また別の人をリスペクトしたり、信じたりすりゃいいのかもしれない。

しかし、この支えのなさ、頼れる人のなさというのはとても不安を掻き立てるものだ。

 

そんなわけで宗教というものがあるのも理解できる。

なにか正しいのかわからない。

でもこういうことにしようという何かがあるというのは生きているうえでとても楽になれる。

楽になることが是か否かは置いたとして。

人が主に頼る理由は今ならよく分かる。

食べる喜びとは何か

吉野家の牛丼は美味しいともう。

吉野家に限らず、すき家松屋の牛丼は美味しい。

しかし、これを毎週食べるとなると話は別である。

たまに食べるから美味しいのであって、食べる感覚が短いと嫌気がさしてしまう。

マックも美味しいと思う。

マックのポテトは結構好きである。

モスバーガーのポテトより好きである。

しかしこれも定期的に食べるとなると話は別である。

 

なんでもそうだが、たまに食べるから美味しいのであって、週一くらいで同じものを食べると人間なんでも嫌になるのかなと思っている。

その内容が高級料理店のものであっても。

現実的にそんなことできるのはお金持ちくらいだけど、毎日高級料理店の料理を週一で同じ店で食べてたら嫌になるのではないか。

吉野家、マックとかと同じ感覚になるのではないかと思う。

 

なんなら、1年くらい漂流して、サバイバルな世界で生活した後に、吉野家の牛丼をだされたらそれは高級料理店並みのおいしさを味わえるとおもう。

だれがいったか知らないが、「空腹は最高のスパイスだ」と言っていた。

 

仏教でいう煩悩というのはこういったことではないのかと思う。

「美味しい」と思って毎日食べられるようになっても、より「美味しい」を求めてしまう。

吉野家、マックだって美味しいのである。

しかし、どこにでもある、いつでも食べられるから希少価値が薄くて「それなりの味」の評価に行ったってしまうのではないだろうか。

せっかくこんなに美味しいものがいつでも食べれるようになったのに、僕は欲求不満に陥ってしまう。

「もっとおいしいものが食べたい!」と。

 

でも高級料理店の味を毎日たべたら救われるのだろうか?

高級料理店の味は認める。もちろん、たまにハズレもあるけど高級料理店にしか出せない非日常の味がある。

しかし、毎日それを食べたら非日常ではなくなり日常の味になる。

 

だからこそ今目の前にある食べ物に感謝して味わうことが大事なのではないか。

それが仏教思想のなかでいう「今を生きる」ということなのではないか。

口の中に含まれた肉の繊維をしっかり意識して感で、生きてきた証を感じながら感謝して食べることが大事なのではないか。

 

煩悩っていうのはそういうことなのかなと思う。

 

リーズナブルな焼き肉屋に行った

昨日焼肉を食べに行った。

 

比較的リーズナブルな店に行った。

値段が高くつくところもあるので焼き肉を食べる機会はとても少ない。

しかし昨日言った焼き肉店はそんなに高くない。

ここで美味しかったら今後はここで食べるようにしようと思っていた。

 

しかし、結果としては「安かろう悪かろう」だった。

5点ほど頼んで4000円くらい。

 

この前言った個人経営の店は3点ほどで5000円くらいだった。

高かった。

焼き肉は値段が高いことを改めて痛感した。

 

なのでこのリーズナブルな焼き肉店で満足したかったのだが、個人経営の店の味が格段に良すぎてちょっとたかくてもそっちを選んだほうが良いという結果になった。

 

やっぱり値段が高いだけちゃんと美味しいんだなと痛感した。

個人経営の焼き肉店はハラミが2700円くらいだった。

それがとても美味しかった。

リーズナブルな焼き肉店は1000円だった。

味は・・・あまり満足いくものではなかった。

あの味と比べてしまうのは酷な話なのかもしれない。

 

お酒を飲むのをやめた

お酒を飲むのをやめた。

 

そもそもそんなに飲むほうではない。

僕がお酒を飲む機会というのは会社の飲み会とかそんなである。

晩酌とかはしていない。

ちょっと前に晩酌とかしたらお酒に強くなるんじゃないかとか思って試してみたけど、あまり楽しくなかった。

 

「お酒を飲むのをやめた」というとみんなこぞって「健康のためですか?」という言葉がでてくる。

 

健康のためも何もない。

そもそも僕はお酒を飲むことにそんなにメリットがないのである。

 

お酒を飲むと気持ちよくなると一般的には言われているが、僕はそんなに気持ちよくなった試しがない。

お酒を飲むと気持ち悪くなる状態が多い。

気持ちよくなる時間というのはもちろんある。

だが、あまりに少なすぎる。

1回の飲み会の中で3時間飲んだとしたら10分程度気持ちよくなってあとは気持ち悪くなる。

イメージとしてはそんな感じ。

 

そうなると飲めなくはないが飲める量は少なくなる。

1回の飲み会でせいぜい2,3杯である。

その2,3杯で3時間持たせようとするのだから、当然1杯で30分以上持たせようとするからのお酒は不味くなる。

炭酸ものとかまさにそうだ。

お酒自体は美味しいと思うものはある。

しかし、ビールはダメ。

美味しいと思ったことはない。

日本酒とか美味しいと思う。

でもアルコール度数高いから全然飲めない。

 

そんな自分が「お酒をやめる」というのはたやすいことであり、苦ではない。

「お酒をやめる」というだけで一般の人からすると苦行のようなものなのであろう。

でも僕にとってはその感覚がまるでわからない。

逆にほかの人からすると信じられないことのように見られる。

 

今まで酒を飲むようにしていたのは結局「みんなが飲んでいるから」なのである。

「お酒を飲んでこそ打ち明けられる話がある」なんて言葉もあるが、別にそんなことはない。

酒がなくたって話したいことはたくさんあるし、要は話せる空気があればそれでよいわけで、それが「飲み会」という場であるだけだと思う。

「アルコールを入れて理性を失わせて話したいことを話す」というのは個人的には理屈があわない。

言いたいこと言っている人はお酒がなくても言いたいこと言っている。

 

なので「お酒は健康に悪い」ということはどうでもいい。

そもそも健康なんてものは時代によって価値観が変わるからあてにならないし宗教の一つとしか思えない。

「お酒は体に悪いです、今からやめましょう」なんて話はどこにでも転がっているが、そんなことはどうでもいい。

俺の健康に是なのか悪なのかそんなことは今の科学では良くわからんものだと信じている。

健康かどうかはどうでもいい、僕にとってメリットが少なすぎる。

気持ちいい時が少なすぎる。

 

ただ飲み会という場は好きである。

それこそカジュアルに話ができる場というのは良いものだと思う。

でもそこに酒が重要かというとそうでもないと思う。

そういった空気があれば十分だとおもう。

「飲み会」だなんていうから「飲まなければいけない」という空気に僕は毒されていた。

だから今まで飲んでいたけど、メリットがないからもうやめることにした。

 

きっかけとしてはコロナである。

コロナによってお酒を飲む機会が格段に減った。

これを機に、飲むのをやめた。

ここ最近では3,4回飲み会があったが、全てウーロン茶で通した。

何も悪いことはなかった。

「お酒を飲みたい」という欲求もなく、我慢することもなかった。

(ほかの人からしたらにわかに信じ固いことなのだろうか?)

 

 

型と迷い

私は型というものを求めていた。

自分の軸となる型である。

しかし、どうやらそのようなものなないと知ったのはおよそ最近である。

学生の時代にはこの型というものを探すためにいろいろやった。

いやみんなが思うほどいろいろはやっていないかもしれない。

私なりにやったということではある。

しかし、型を探すためにいろいろやった結果、結局何一つとしてハマるものはなかった。

僕は一体なにがしたかったのだろう。

 

型があるととても楽だ。

型があれば迷ったらそこに行けばいい。

それを信じればいい。

そこに託せばいい。

そこに依存すればいい。

しかし、そういったものがないと迷いが生じる。

 

僕はどうしたらいい。

なにをこれからすればいい。

そんな迷いがずっと付きまとう。

型がないということは自由だ。

なんでもできる。

しかしあまりにも自由すぎる。

その可能性は無限である。永遠である。

その可能性の広さが僕を恐怖に落とし込める。

なにを選択すべきか。

およそ決める基準がない。

型さえあればなんて思ってしまう。

 

そうすると私は誰なのか?と考えてしまう。

どんどん沼にハマる。

沼どころではない。

宇宙の果てに放り出される。

帰れなくなる。

いや、帰れなくなってしまった。

 

今のところ唯一頼りになりそうなのは本である。

本はおおよその地図が描かれているようだ。

しかしその地図は正確ではない。

間違っている可能性もある。

元の場所、本来の場所に帰れる保証はない。

いや、むしろ帰らなくても良いのではないだろうか。

こんな果てにいるのであれば、生きているうちに元の場所、本来の場所に帰れるわけもない。

今いるこの果ての彷徨いを楽しむしかないのではないだろうか。

 

大人になったら型ができるものだと思っていた。

しかし、そんなものはないようだ。

自分は特別な存在なのか疑問に思う

僕は特別な存在でありたいと願っているようだ。

僕はほかの人と違って特に不幸を良く感じるようだ。

だからほかの人と何かが大きく違っているのだと思っている。

思い込んでいる。

このことを大学の時に友人に話したらあきれられた。

「何を言っているんだ?みんな同じだ。おまえだけ特別なんてことあるか」

彼の言うことは最もだ。

僕はなにも大きく違いはない。

理屈はあっている。

 

しかし、もう一人の僕はそれを否定する。

「だとしたなぜ僕はこんなにも苦しいのだ?」と。

皆何も言わないのに、なぜ僕だけグチグチ悩んでしまうのか?

みんななぜ何も言わないのか?

彼らは何も感じていないのか?

 

しかしどうやら違うらしい。

皆感じてはいるが何も言わない。

言わない理由は人それぞれだろう。

言っても意味がない。言ったところで何も変わらない。

言うことによって周りに迷惑がかかる。

皆同じく苦しいのだけれども、みんな耐えているのだから、私も耐えよう。

そう思っているのかもしれない。

 

しかし自分はそれが信じられない。

こんなに苦しいのにみんなよく黙っていられるなと。

なぜみんな声を上げないのかと。

 

もしかしたら肌で感じてわかっているのかもしれない。

皆がみんな声を上げたら秩序が乱れる。

統合が保てなくなる。

混沌とした世界になる。

 

ああ、でもやっぱりこう感じてしまう。

「みんなそんなに大して問題は感じず、そんなに大して苦しいと思っていないのではないか?」

だからやっぱり自分が特別苦しみを感じてると思ってしまう。

良くないことだとはわかる。理屈はわかる。

しかし今になってもまだ僕は一人で勝手に騒いでいる。

この癖はどこからどうやってくるのか。

 

みやぞんなんかはこう言っていた。

「自分の機嫌は自分でつくる」

こんなことを言っているのはみやぞんだけではない。

いろんな人が言っている。

いろんな本がそれを物語っている。

 

その理屈はわかるが、一向に癖は治らない。

朝が辛い。

逆上がりの理屈はわかるが、逆上がりはできない。そんな感じ

 

オレンズネロ(めっちゃ良い!)

www.pentel.co.jp

テレビの博士ちゃんでやっていた文房具のやつでオレンズネロが紹介されているの見てほしくなったので即買い。

これいいですよ!

まずオレンズは持っていたんですけど、ネロでなく安いやつ。

それでも折れないのはとても魅力的だった。

僕は筆圧が高いせいかすぐに芯が折れる。

でもオレンズは本当に折れない!素晴らしい。

 

そんなオレンズで芯が出続けるやつがあったとは知らなかった。

早速使ってみてとてもよかった。

いちいち芯をカチカチ出さなくても永遠と使えた。

これは便利!

素晴らしいです!

 

僕は今イラロジ↓にはまっているのですが、ずっと集中してできます。

puzkan.jp

 

ただ問題が一つ。

あまりにも集中できてしまうため、気づいたらめっちゃクタクタになる(笑)

 

しかしストレスなくできるのは本当にいいですね。

愛用したいと思います。