※ネタバレありのないようなので気にする方はご注意。
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この話って全部撫子の妄想でしたって話だけど、最初見たときは流石に都合よ過ぎじゃありませんか?西尾維新さん。と思っていました。
呪いの勉強をしていたことを忘れていたり
忍野扇の話を忘れていたり
阿良々木家の鍵を持ち出していることを忘れていたり
流石に妄想が過ぎているなと思った。
でも人は常に妄想している。それを知ったうえで見るとちょっと考え方が変わった。
この本では妄想は人の最大の煩悩であり、常に行っているものであるといっている。
この本では妄想のことをイリュージョンという言い方をしている。
この世界を人は正しく認知していると思っているけど、そう思い込んでいるだけとういうお話。
そう考えると撫子の妄想というのもそんなに馬鹿にできるものではないのかもしれない。
結局自分は妄想の中でしか生きていない。
その妄想の中では撫子みたいに被害者であり続けようとしている面もあると思う。
僕も被害者で有り続けようとしているかもしれない。
被害者という立場は結構有利な立場になりえたりするものだから、それをなんとか利用しようと妄想することは多くあるのかもしれない。
仕事で残業するとき、本来僕がやる仕事じゃないのに、あの人がやるべきなのに、この会社のやり方が良くないんだ、上司のやりかたが良くないんだ、僕は被害者なんだ。
といったように被害者ぶることはよくやっている。
人は被害者にも加害者にもなり得る、どちらにもなり得るというのはなでこメデューサの中でも言っていたような気がする。
被害者というのは救われるべきだ。
被害者が見過ごされるべきではない。
手を差し伸べ助けてあげるべきだ。
しかし、その特権を利用して被害者という立場を利用して、被害者になろうとする人間はいる。
被害者でもないのに被害者であろうとする。
そんなのは許されるべきではない。
じゃあ、何を持って被害者なのか。
被害者としての特権を得るには何が必要なのか。
撫子は被害者だったろうか?
加害者だったのだろうか?
忍野忍が特にその点について撫子に迫っていたと思う。
「そうやって被害者ヅラしていればだれかが助けてくれる」
許してもらえる。
それを撫子はやろうとしているのではなく天然でやっている。
忍野忍はそのことを「魔性」と表現した。
「よかったの。たまたまかわいくて。」と言った。
このセリフ、なかなか毒があっていい。
おそらく僕も被害者妄想をしていて、これからもしていくのだと思う。
ぼくは彼らに虐げられていて、やつらにいじめられているのだと。
自分が弱い立場であって良い、自分が弱い立場であることの合理的な理由を作っている、いわゆる妄想何じゃないかと思う。
じゃあどうすべきか。
日高敏隆がいうには僕らはイリュージョン(妄想)の中でしか生きられないという。
反応しない練習では妄想していることを認め、ラベリングすることで正しい認識(八正道的なこと?)をしていくべきだという。
被害者かどうかについてはそれを判断すべきではないと言っている。
なので僕は撫子のことをバカにすることはできない。
なぜなら自分自身もその一人だからだ。