水溜まり。

日々思ったことを書いてみる

うかつに「好き」と言えない

僕は知識欲がない。

物事に関心がないと言ったらいいのか。

 

アニメを見ることは好きだし、音楽を聴くことは好きだ。

しかしアニメのキャストの名前とか声優の名前とかなかなか覚えられない。

音楽は好きな曲、アルバムを覚えられない。

最近話題とかも話せない

 

今まであったこと。

・何かの会話の中で庵野秀明庵野ヒデオと言ってドン引きされた。

四畳半神話大系をちゃんといえなくて「四畳半なんとかってのが好きなんですよね」と言ったら「なんだよそれ!知らん!」といって怒られた(本当に知らないのだろうけどその前にちゃんと名前覚えていないことに怒られたのだと思う)

・後輩が武道館でアニソンのライブ行ったらしいけど、名前聞いてもよくわからない。

・高校のときだったか「はしのえみ」を知らないと言ったらドン引きされたことがある。

ミスチルが好きなんだよねといったら相手はミスチルのことそんなに好きではないらしいのだが、イベントとか雑学の話をされて俺以上に知ってて何も言えなかった。

 

そうなってくると「好き」ということをうかつにも言えない。

「○○が好きなんだよね」と言ったあとに相手は持っている知識をいろいろ出してくる。

しかしそれに対して対応できない。

大抵知らないことばかりだから。

もちろん、その知識が増えてうれしい限りではあるのだけれど会話が続かない。

僕は「へえそうなんだ」としか言わない。

相手はもっと「そうそう○○で○○なんだよね。今度○○があるから一緒に行かない?」くらいの返答が欲しいのかも知れない。

よくかわからないけど。

少なくとも期待に応えられていない気がする。

 

だから「好き」ということが素直に言えない。

というよりも自分は好きなものがないのではないかと思う。

物事に無関心。

かっこつけてるとか、斜に構えているとかではなく自然とそうなってしまう。

 

好きなアニメを見たり、音楽聴いたり、小説読んだりすると楽しいとは思う。

でもそれ以上のことをしようとしない。

普通は(普通なのかよくわからないが)そのアーティストのこと、声優のこと、作家の人のことしらべて最近のイベントとか調べて、どんなことをしてきたのか知識を入れて楽しむのだろうけど、その「楽しむ」が僕にはないのかもしれない。

なんでかよくわからないけど。

見て、聴いて、読んで終わり。

楽しかった。良かった。満足した。

それ以上のことをしない。

全くしないわけではないけど他の人が100やっていたら僕は10しかやっていないのかもしれない。

 

日本の1年間の死者数

日本の1年間の死者数はどのくらいかご存じでしょうか。

 

2022年(令和4年)の死者数は約150万人でした。

150万人。

一日で約4000人、1時間で約180人、1分で約3人が亡くなってます。

これってなんかすごくないですか?

実際にはこんな単純な計算ではないものの、少なくとも1日経ったら数百人は亡くなっているとも言えます。

 

僕はこの数字を知ったのは2020年ころでした。

2020年と言ったら何が起きたかはだいたいお察しだと思いますが、僕はその時に死というものをもっと知ろうとしました。

そこでまず知ったのが日本の年間の死者数です。

その時は130万人でしたが、そんなに1年間に人は亡くなっているのか!と驚いたものです。

というのも、ニュースは物事の悲惨さを数字でやっぱ表したいわけで。

そこに出てくる○○人!!という数字を見て僕はそんなに亡くなったのかと悲惨に思ったわけです。

 

僕が言いたいのは死というのはどうも平等に扱われていない気がしていて。

それがどうも悲しいと思ってしまうのです。

年間130万人亡くなっているということを知らない、気づかない、関していない。

でもニュースに流れてくる○○人の死者数は敏感に反応してしまう。

 

この日本という国の中だけでも年間130万という死者があるなかで生きている。

ほとんどは病気で、その中には自殺だったり、交通事故だったりで。

どんな理由であれ、どんな死因であれ悲しい出来事なはずなのだが、それを知らずして僕は生きている。

 

僕らは疑ったほうが良いのかもしれない。

死という概念から離れて生きていけることを。

もしくはそれはありがたいことだと感謝すべきなのかもしれない。

音楽の楽しみ方?

僕は音楽を聴いてもそのアーティスのことを知ろうとしない。

もちろん名前は覚えるけど、そのアーティストが今何をやっていて、どんなイベントを開いていて、どんな人生を歩んできたのかあまり知ろうとしない。

下手したらアルバム名とか曲名すら覚えようとしない。

なのでなにか音楽を語るということがいまいちできない。

「○○が今度○○のイベントするよね?チケットとれるかな」

「○○のアルバムは○○をきっかけに作られたらしいよ」

「○○のバンドのベースは○○をしていたんだって」

「ギタリストの○○が使っているギターは○○で、○○で・・・・」

 

かといって音を真剣に聴いているかというとそうでもない。

正直mp3とCDの違いが良く分からない。

楽器を弾いていたことがあるが音作りというのものがいまいちよくわからない。

 

音楽の楽しみかたはいろいろあると思う。

1.音楽を聴いて芸術として楽しむ。

 音楽を聴いて音そのものを楽しむ。

 耳に流れてきた空気の振動を感じでどんな音が流れているのかを感じる。

2.音楽をてエンターテインメントとして楽しむ。

 音楽を聴いたうえでそれにかかわる情報を知って楽しむ。

 イベントに参加して楽しむ、情報を人と共有して楽しむ。

3.楽器を弾いて楽しむ

 好きなアーティストの曲を自分で弾いて楽しむ

4.作曲して楽しむ

 自分で曲を作って楽しむ

 

僕はどれも試してみたけど、どれも中途半端。

本気で楽しめたことはないのかもしれない。

日記は自分だけが見るものですよね?

僕は日記を書いているのだが、その日記を子供(小学2年)が見ていたのでその時のやり取り。

僕「人の日記は見ちゃいけないよ。」

子供「なんで?」

僕「日記は人に見せるものじゃないんだ。自分だけが見るものなんだよ。」

子供「人に見せるものだよ。だって学校で日記かいたら先生に見せるもん。」

僕「確かに・・・」

 

僕はなんとも言えない気持ちになった。

確かに学校って日記を書かせて人に見させるよね・・・

あれって本来の日記の役割を失っているような気がする。

日記として覚えさせるべきではないと思う。

新しいアニメを見るなら好きだったアニメを見返したい。

新しいアニメを見るなら好きだったアニメを見返したい。

アマゾンプライム物語シリーズが見れる。

ちゃんと見ていなかった終物語を今見ている。

新しいアニメも気になるけど、結局見なれたものを見るほうが気持ち的に楽だし、疲れないし面白く見れる。

 

同じアニメを何度も見るのってなんか時間の無駄のように思われるかもしれないけど、心地よい時間が過ごせるならそれは良いことだと思う。

 

アニメは真剣に見ている。

何かをしながら見ない。

何かを食べながら見ない。

口に入れるのは水くらい。

スマホ見ながら見ない。

しっかり椅子に座って、じっくり見る。

こうするとより面白く楽しめる。

綺麗な画質だと最高。

 

しかし、アマゾンプライム物語シリーズはどうも画質が良くない。

アマゾンプライムはお手軽だけどその点が難点。

響けユーフォニアムは結構綺麗だったんだけどなあ・・・

科学への信頼の揺らぎ

僕は子供の頃これからは科学の時代なのだと信じていた。

これからは科学を発展させていき、今はまだわからないことも多いけどこれからより発展することによってより便利になり、人はもっと幸せになるものだと思っていた。

しかし、最近どうもそれが信じられなくなった。

どうも頼りなくなった。

 

きっかけはコロナ騒動である。

2020年からなんだかよくわからない新型コロナに対して科学の動きが試された。

その結果はいったいどうなったのだろう?

いまはコロナ騒動は2,3年前に比べれば落ち着いている。

これは科学の勝利だ。

とは、僕は思わない。

かといって敗北とも思わない。

どうも良くわからない。

何が起きたのか良く分からない。

僕はその判断が一番正しい状況だと思う。

 

結局あれはなんだったのか?

なんで落ち着いたのか?

何が効果があって、何が効果がなかったのか?

良く分からない。

調べればわかるという人はいる。

勉強すればわかるという人はいる。

一定数いる。

でも調べても勉強してみてももっとわからなくなる。

ある考えや定説や論文を調べてもそれに反対する人がいるからだ。

どちらも「それは科学的ではない」「それは感情的だ」とお互いがお互い言い争っている。

だから僕はそれに対して「こっちが科学的に正しい」とは言えない。

というよりも「科学的とは何か?」「正しいとは何か?」という話になってくる。

 

僕は子供のころ科学の時代なのだからこれからは哲学は廃れ、宗教は亡くなっていくものと思っていた。

哲学や宗教は必要ないものと思っていた。

しかし、残念ながら僕がたどり着いたのは哲学と宗教だった。

僕はこのコロナ騒動は宗教にしか感じられなかった。

なにを正しいと思っているのか各々個々人がそれぞれ持っていて、みんな違っている。

「みんな違ってもいい」だなんていうが、違う意見によって争いは起こるし、それを避けてお互いがお互いを様子見ている人もいる。

お互い様子見るのがめんどくさい人は多数派に付くだけだ。

なので理屈とか理論とか、科学的説明なんてみんなどうでもよかった。

だれもそんなことを気にしていなかった。

大事なのは周りの状況、絆、周りの目だった。

そういった意味では科学は敗北していたと思う。

科学というもので人は動いていなかったと思う。

そこにあるのは理屈でも理論でも科学的説明でもなかった。

数値では表しにくい、正しい値がわかりにくいものの判断をするときに多数派はとても便利で強力だと思う。

 

僕はコロナ騒動で科学というものが良く分からなくなった。

非常に頼りないものだと思った。

どんなに「科学的」と言われている話を聞いても、結局その話を理解できないひとは「科学的ではない」と判断してしまう。

お互いがお互いそう思ってしまう。

それを解決できないのは科学が「こうだ!!」という数値を提示できないからだと思う。

だから科学はとてもたよりないと思った。

ここれはあえて○○派とか○○反対派とか○○陰謀論とかそういった話はだしたくない。

僕は僕なりに思いや考えはあるが、残念ながらそれは正しいのか正しくないのか今の科学ではわからないのだろうというのが正解、と思っている。

でもそれがわかるのはいつなんだろう。

 

そもそも科学という言葉を追求していくと、統計的な確からしさを増そうとする試みなのであって、あくまで絶対に正しいを判定できる学問ではないらしい。

今もこの時代でも進化論を信じない、地球平面説を信じている人がいるらしい。

そして、それは科学の最先端を進むアメリカにもいるらしい。

 

僕は科学というもののから完全に信頼を失ったわけではない。

ただ、科学に対して絶大な信頼をしていたことは良くないことだと思い始めた。

信じすぎるというのは良くない傾向に走ることが多い。

逆の考えの人を押しつぶそうとするからだ。

宗教は怖いというが怖いのは宗教の内容を信じすぎて、自分の解釈を信じすぎて他を許さないというのが怖いのである。

このコロナ騒動の宗教も同じことだと思う。

 

冒頭から僕は科学を信じているとか信頼しているとか言っている。

科学は宗教の一つだなんて言っている人もいたが、僕はその通りであると思う。

僕はただ科学を信じているだけである。

この科学を大多数の人は信じている。

ただそれは仕方のないことだと思う。

だからと言って科学は良くないから信じないほうがいいというわけではない。

人は何かを信じないと、何かしらの宗教がないと生きていけないのだと思う。

その宗教が今は科学だったり資本主義だったりするだけである。

またキリスト教とか帝国主義(一人の王が支配するような世の中)の舟には戻れない。

僕らは今この舟に乗るしかない。

他の舟がないから。

もし新しい舟が見つかったら、僕らはその舟に望んでもないのに乗り移って同じようなことを繰り返しているのだろう。

現代において一切タイアップせずに大成することは可能か?

www.youtube.com

 

このシリーズとても好きです。

音楽について考えさせられる、とても刺激のある質問が詰まっていて面白い。

 

特に以下のお題がとても刺激を受けたので、自分の考えについて書いてみる。

・現代において一切タイアップせずに大成することは可能か?

僕はこういった「現代は」とか「日本は」ということはかならず疑った見方をしてしまう。

だいたいは今も昔も同じだし、日本だけではない場合が多い。

違っていたとしてもそれにおいて良い悪いは決められない。

良い面もあるし悪い面もある。

言葉だけで聞けばなんかよさそうに見えるけど、実際にその時代に住んでみる、実際にその地域に住んでみるとでは現実とイメージは異なるものだと思う。

 

僕がこの質問で思ったのは、音楽は音楽だけで成り立っているわけではないということ。

音楽はどの時代においても「音」だけで票を集めていたわけではないということ。

と思っている。

音楽だけ聴いて「この音楽は素晴らしい!この曲はこのアーティストにしか作れない!」というは幻想だと思っている。

その音楽はその音がどの時代にどう扱われてどのような人が扱っているかで全く変わってくる。

 

僕はファイナルファンタジーの曲が好きである。

ファイナルファンタジーの曲を作る植松伸夫の曲は何でも好きだ!と思っていた。

しかし、植松伸夫が作っている曲はファイナルファンタジーだけではない。

それ以外のゲームでも曲を作っている。

その曲を聴いて僕はあまり好きではなかった。

なのでこう思った。

「僕はファイナルファンタジーが好きだからその中で流れる音楽が好きなのであって、植松伸夫の作る曲が好きということではないのでは?」

 

でも、しばらくしてそんなことを考える必要はなくなった。

なんとなくして、音楽は音だけで素晴らしいと判断しているわけではないと思ったからだ。

芸能格付けチェックの番組で高級楽器、超有名演奏団で演奏したほうを選択できないのと同じである。

別に音がいいんじゃなくて、「高級楽器、超有名演奏団」という情報をもって音がいいように感じているだけなのである。

 

そう考えるとこのタイアップっていう話も、

「あのドラマ、アニメ、映画で流れていたから好きになった」

というのも全く違和感はない。

それをきっかけに音楽を聴き、あのシーン、あの俳優、あのキャラをイメージしながら聴くことでその音が良くなる。

 

じゃあ、そのイメージがなかったらその音楽は価値がないのか?

例えばファイナルファンタジーの音楽を、ファイナルファンタジーなしで聴いたら僕は好きにならなかったか?

そんなこと考えていた時期もあったが、それは意味がないと思った。

なぜなら比べることができないからだ。

「ァイナルファンタジーなしで音楽を聴く」という世界線の僕を作らないといけない。

そんな世界線を僕は目の当たりにすることはできない。

だから、僕はファイナルファンタジーがあっての音楽が好きで良いと思う。

そうせざるを得ないから。

 

だからタイアップで大成でも良いと思う。

タイアップなしで大成というアーティストもいるだろうけど、それはそれで音だけで勝負しているわけではなく、別の方向で音以外でその曲を盛り上げている部分はあるはずである。

それがどんな内容であれ、それでその音楽が僕に届き、僕が心地よくなるのであればそれでいいと思う。

(もちろん音以外の要素で盛り上げているのが見えにくいのがかっこよく見えてしまうけど、それは自分が音楽を聴くときの心地よさとは関係はない)

 

今は昔に比べて音楽が手軽に聴ける。

その分、大量の音楽の中から選択しなければならない。

そのきっかけとしてタイアップというのは悪い話ではない。

大量にあるのだから選ぶきっかけができるのはとても良いことだと思う。

もちろん、その奥にもしかしたら自分が聴いたらとても心地よくなれる音楽が潜んでいるかもしれない。

タイアップやランク上位、有名アーティストに埋もれて本当に心地いいものに出会えないかもしれない。

でも音楽というのは縁で勝手につながっていくものだから、無理して開拓しようとか考えないほうがいい。

自然に待っていれば自然とその音楽に出会える。

そんなこと言っていたアーティストもいる。

なんかちょっと宗教ぽいと思われるかもしれない。

でも僕は音楽は宗教だと思う。宗教に近い何かだと思う。