水溜まり。

日々思ったことを書いてみる

食べる喜びとは何か

吉野家の牛丼は美味しいともう。

吉野家に限らず、すき家松屋の牛丼は美味しい。

しかし、これを毎週食べるとなると話は別である。

たまに食べるから美味しいのであって、食べる感覚が短いと嫌気がさしてしまう。

マックも美味しいと思う。

マックのポテトは結構好きである。

モスバーガーのポテトより好きである。

しかしこれも定期的に食べるとなると話は別である。

 

なんでもそうだが、たまに食べるから美味しいのであって、週一くらいで同じものを食べると人間なんでも嫌になるのかなと思っている。

その内容が高級料理店のものであっても。

現実的にそんなことできるのはお金持ちくらいだけど、毎日高級料理店の料理を週一で同じ店で食べてたら嫌になるのではないか。

吉野家、マックとかと同じ感覚になるのではないかと思う。

 

なんなら、1年くらい漂流して、サバイバルな世界で生活した後に、吉野家の牛丼をだされたらそれは高級料理店並みのおいしさを味わえるとおもう。

だれがいったか知らないが、「空腹は最高のスパイスだ」と言っていた。

 

仏教でいう煩悩というのはこういったことではないのかと思う。

「美味しい」と思って毎日食べられるようになっても、より「美味しい」を求めてしまう。

吉野家、マックだって美味しいのである。

しかし、どこにでもある、いつでも食べられるから希少価値が薄くて「それなりの味」の評価に行ったってしまうのではないだろうか。

せっかくこんなに美味しいものがいつでも食べれるようになったのに、僕は欲求不満に陥ってしまう。

「もっとおいしいものが食べたい!」と。

 

でも高級料理店の味を毎日たべたら救われるのだろうか?

高級料理店の味は認める。もちろん、たまにハズレもあるけど高級料理店にしか出せない非日常の味がある。

しかし、毎日それを食べたら非日常ではなくなり日常の味になる。

 

だからこそ今目の前にある食べ物に感謝して味わうことが大事なのではないか。

それが仏教思想のなかでいう「今を生きる」ということなのではないか。

口の中に含まれた肉の繊維をしっかり意識して感で、生きてきた証を感じながら感謝して食べることが大事なのではないか。

 

煩悩っていうのはそういうことなのかなと思う。