涼しくなったような気がするけど、クーラーをつけないと暑い。
「書く習慣」の本
昨日読んだ「書く習慣」の続きを読んでみた。
ブログを書くのに自分語りOKとのことです。
それは本当良かった。
なんせブログを書けない最大の理由は自分語りしかできないから。
なにか便利なものとか、
ノウハウとか、
面白い話とか、
役に立つこととか、
知識がつくような、教養のあるネタとか、
書こうにもかけない。
なぜならすでにあるから。
書こうと思ったら調べるしかないよね。
ネットみて。
すでにあるものを書くみたいな変な話になる。
だから書けなかったけど、自分語りがOKだというなら思う存分自分のことを書いてやろうと思う。
書くことの意味
たぶん、まったく意味はないのだと思う。
いや、意味を持たせようとするのはやめようと思う。
日記自体はこのブログとは別に、紙ベースで書いている。
紙ベースだといいのは他人に見られないこと。
日記を書くこと自体は3年前くらいから始めたけど、こんなにいいものだとは思わなかった。
自分を客観視できる。
これに尽きるかと思う。
自分が頭で思っていること、考えていることって意外と自分でよくわかっていない。
でも紙に書くことによってそれを客観視できる。
もちろんPCのメモ帳とかでも良いのだけれども、紙だと感情によって文字の書き方が変わってくる。
これはこれで面白い。
書き方、スタイルも変わってくる。
始めたころはノートが埋まるようにびっしり書いていた。
ノートがもったいないから、すこしでも無駄にならないようにびっしり書いていた。
正直後から見ても自分でも読めないくらいにびっしりかいていた。
でも今は見開きでゆとりをもって書いていて、空きスペースがあっても次のページに書くようにしている。
後で見るときに見やすくて良い。
こういった変化を見るのも面白い。
あと、紙ベースで良いところとして、丁寧にきれいに書くと気持ちいい。
なんだか嫌な気分でかくとぐちゃぐちゃとなっちゃうけど、落ち着いているときに書いた文字は見てて気持ちがいい。
宗教について
これも3年前くらいから興味持っていろいろ勉強し始めている。
宗教のイメージってどうしても統一教会とかオーム真理教とかのオカルト宗教を連想してしまってなんか怖いイメージが強いけど、仏教もキリスト教もイスラム教もユダヤ教も昔はなかったところから生まれて広がっていったんだよね。
そうすると生まれたての頃なんてのは新興宗教なわけで、「なんだこいつら」「やべえやつがいるぞ」なんて思われていたのだと思う。
調べてみると本当に面白い。
僕が無知すぎるのかもしれないが、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教とできていって、それぞれ同じ神を信じていることを最近になって初めて知った。
あたり前な話なのですが、仏陀はインドの人なのでそもそも漢字なんて知らないんだから、「南無阿弥陀仏法蓮華経」とか書いていないわけですよ。
そもそも仏陀は何かの教えを文字に残すことを嫌がっていたから書としてのこっていないとか。
仏陀の弟子が仏陀の言っていた言葉をかき集めて今の仏教の教えがあるとか。
キリスト教の聖書だってイエスが書いたものではなく、弟子?のだれかが書いたとか。
なんかそんなことを知っていくととても面白い。
今の仏教、キリスト教はもしかしたら仏陀、イエスから見たら「いや、そうじゃないんだよ・・・」と思うものかもしれない。
仏陀、イエスはあまりにもカリスマ過ぎたものだから死後、数年後に神扱いされてしまったのではないかと僕は思う。
こういったことに興味がある。
でも宗教に興味があるってなんかやべえやつにしか聞こえないから、なにか良い言葉はないものかと思っている。
「宗教学」と言えば少しは怖さ怪しさが軽減するように感じているのだけれど、堅苦しい感じはある。
なにか良い言葉はないかと思う。